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2021-09-05

漁民80+水手150~160人:古賀家族經營尖閣群島

【縛雞之見】
古賀家族經營尖閣群島,1908年:漁民80+水手150~160人。

消えた古賀村の謎    産経新聞論説副委員長 佐々木類@別冊正論36 20210320

 ※この記事は、別冊正論36号「尖閣絶体絶命」から転載しました。ご購入はこちらをクリック

 絶海の孤島に天高く鳴り響く無数のカエルの声。島一面に生い茂るクバの群生とその中から時折姿を見せるヤギの親子-。

 上陸した魚釣島で眼前に広がる風景に心を奪われた。ふと振り返ると、島の沖合に停泊する海上保安庁の巡視船がこちらを見張っていた。

 平成九(一九九七)年四月二十七日午前零時過ぎ、沖縄県石垣市の市議会議員、仲間均氏と小型漁船「みつ丸」(川満安次船長、四・五トン)に乗り込み、石垣港を後にした。東シナ海に浮かぶ尖閣諸島最大の島、魚釣島周辺海域における漁業資源調査と日本漁船の操業実態などの調査を行う仲間氏に同行取材するためだった。

 当時の中国は海警局の巡視船ではなく、海洋調査船を使って尖閣諸島周辺海域に出没していた。表向きは海洋調査だが、尖閣強奪を狙う「慣らし運転」である。同行取材したのは、多くの日本国民に島が中国に狙われている実態を広く知ってもらうためでもあった。

 以来、尖閣諸島をめぐる動きを注視してきた。だが、どうしても分からなかったのが、かつてこの島々に存在した古賀村の生活実態だった。明治期、尖閣諸島には古賀村があったことは知られていたが、詳しいことは謎に包まれたままだった。だが、この村で暮らしていた人々の息づかいを伝える格好の本がついに現れた。

 『尖閣諸島盛衰記~なぜ突如、古賀村は消え失せた?』(尖閣諸島文献資料編纂会)である。沖縄県を中心に埋もれていた資料の発掘、収集のほか、情報発信を目的に有志の学術団体がまとめたのだが、これが実に興味深い。

 関係者への丹念な聞き取りや現地調査から、村の配置図や当時の暮らしを伝える多くの写真、生活実態が描かれている。古賀村ではどんな人々がどのように暮らしていたのか。そして、なぜ突然消えてしまったのか。この本を基に当時の生活ぶりを紹介し、消えた古賀村の謎を追ってみたい。

開拓者、古賀辰四郎

 そもそも、尖閣諸島に存在した村名の由来であり、島の開拓者である古賀辰四郎氏とは、どういう人物なのか。米国のペリー提督率いる軍艦四隻が江戸湾に現れてから三年、大地震が関東地方を襲った翌年の安政三(一八五六)年、現在の福岡県八女市山内(筑後国上妻郡山内村)に茶の栽培と販売を行う農家の三男として生まれた。八女市は現在もブランド「八女茶」の栽培で知られる。

 二十四歳となった明治十二(一八七九)年、那覇(現沖縄県)に渡り、茶と海産物を扱う古賀商店を開業した。その三年後には石垣島に支店を開設し、尖閣諸島への間合いを徐々に詰め始める。明治十七(一八八四)年、人を使ってついに尖閣諸島の一つ、久場島を探検し、アホウドリなど海鳥の羽毛採取に乗り出している。

 古賀氏は尖閣諸島だけではなく沖縄本島の東方に位置する大東諸島の開拓も手がけている。そんな古賀氏が本格的に尖閣諸島の開拓に乗り出したのは日清戦争真っただ中の明治二十八(一八九五)年のことだ。明治政府から尖閣諸島開拓許可を受け、魚釣島、南小島、北小島、久場島の四島三十年間無料で借り受け三十年漁民三十五人を派遣した。翌年、古賀氏は大阪商船汽船「須磨丸」(一六〇〇トン)を用意し、労働者五十人を連れて魚釣島に向かう。尖閣諸島での事業経営の始まりだ。

 古賀氏が本格的に尖閣諸島の開拓に乗り出した明治二十八年当時は漁民を派遣してアホウドリの羽毛やカツオなどの水産物を採取していた。だが、短期的な漁民の派遣による事業経営に限界を感じた古賀氏は、労働者の永住による事業方針に転換する。

 古賀村の建設を思い立ったのはまさに、このときだった。精力的な古賀氏は四年後の明治三十二(一八九九)年、単身上京して東京帝国大学の箕作佳吉教授に教えを乞うため面会している。

 古賀氏はこの際、箕作教授に紹介された教授の教え子、宮嶋幹之助と沖縄師範学校の黒岩恒教諭の二人に尖閣諸島の現地調査を依頼した。

 調査結果に基づく開拓の基本方針として、(一)鳥類や魚介類の乱獲を戒め繁殖させることで、生息している種を断絶させてはいけない(二)家屋を建て、移住者の安息を図る(三)久場島には水がないから、貯水槽を設置する(四)船着き場を造る(五)道路と下水など汚物の廃棄場所を造り、衛生管理に万全を期する-などが決まった。

 この記録は、国立公文書館に保存されている明治四十二(一九〇九)年の「古賀辰四郎へ藍綬褒章下賜ノ件」の「尖閣列島ニ対スル技術上ノ設計」の中に記されている。

 尖閣諸島での事業の中でも、とりわけアホウドリの羽毛は横浜や神戸の外商に人気で、高値で取引された。

 明治四十一年ごろ、十七歳だった古賀氏の長男善次氏は、当時の尖閣諸島の賑わいについて「南小島や北小島は海鳥の繁殖地になっていて、ウミツバメの捕獲を大々的にやりました。そのころはヨーロッパ、とりわけドイツではウミツバメの剥製が婦人帽の飾りとしてもてはやされており、横浜の貿易商を通じてかなりの数量を輸出した。このころが尖閣諸島の最盛期で、シーズンには漁船員だけで八十人カツオ節造り海鳥の剥製作りの人間もいれると、百五十~百六十人もの海の男が集まり賑わっていた」と語っている(昭和四十五年、日本経済新聞『尖閣諸島のあるじは私 古賀善次』)。

 話は尖閣諸島の開拓の歴史から少しそれるが、ここで一つ、どうしても押さえておきたいことがある。

 今紹介してきた事実から分かるのは、尖閣諸島は文字通り、歴史的にも国際法的にも日本の固有の領土であって、居住や生活実態があったという事実である

 中国は「日本が日清戦争後に台湾の付属島嶼として尖閣諸島を割譲し、窃取された」などと主張している。だが、古賀氏が尖閣諸島の開拓に乗り出した、日本が領土に編入したのは、下関条約締結の三カ月前である

 中国の主張はまったく根拠がないことを銘記したい。

 

 

 

 


4 則留言:

  1. "女王"訪問日本的影片........一部份是橫須賀拍的,一部份是佐世保拍的.
    除了日本的國防部長(防衛大臣)以外,還廣邀媒體登艦參觀.
    (看來英國真的也想賣.....推銷一下)
    韓國則是已經由現代重工跟設計女王的英國團隊,敲定了一艘"公主"版本.(女王減肥縮小的規格)
    但新聞/影片我要去挖一下.

    https://youtu.be/Jj6PMAN8H_4

    https://youtu.be/7aRQuSNp2a4

    https://youtu.be/4lAsLkGWR68

    https://youtu.be/MtazTDcN8RY

    https://youtu.be/gSkvxuaTOA8

    其中進橫須賀前還跟出雲號打了照面, 可以比較一下兩者的差異.
    至於載機量,兩者不是同一量級.(以F35計,出雲估計是10-15架,女王至少45架)

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  2. 忘了再提兩點.....

    女王會來東巡,不就是某份"歷史文件"造成的?
    女王的載機量雖然可以到那麼多架; 但英國服役中的F35填不滿機庫,因此讓盟友的航空分隊進駐,可以提高戰力和軍事合作.
    不知道日本會不會也安排F35B登艦進駐? 反正空房還很多.

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