【縛雞之見】
作者は何回も時代の転換期というコンセプトを強調した。それは現時点日本の顔?
「菅首相」の先輩? 英無派閥宰相のリーダーシップ君塚直隆・関東学院大教授に聞く 日經BizGate 20200915
自民党の菅義偉新総裁が、16日の臨時国会で首相に指名され、第1次菅政権をスタートさせる。新型コロナウイルスの収束が見えない状況下で日本の進路を舵取りする「無派閥」首相の誕生だ。総裁選では事前予想通りに圧勝する一方、党内基盤の弱さも囁(ささや)かれている。海外に目を転じると、政党政治の歴史が長い英国では、時代の転換期に無派閥・一匹オオカミの宰相が、優れたリーダーシップを発揮してきたという。19世紀から20世紀の大英帝国を支えたパーマストン、ロイド=ジョージ、チャーチルの3首相について、英国政治外交史の君塚直隆・関東学院大教授に聞いた。
英国の「官僚文化」を改革したパーマストン
無派閥リーダーの「始祖」ともいえる政治家が、19世紀の「巨人」のひとり、パーマストン英首相(1784~1865)だ。帝国主義時代の欧州でメッテルニヒやナポレオン3世、ビスマルクらとやり合う一方、アヘン戦争(1840年)など「砲艦外交」を展開したことでも知られる。外相歴が長く「英国に永遠の友も敵もいない。永遠にあるのは国益」との名セリフも残っている。
君塚教授は「パーマストンは特に誰かの党派・派閥に入ることなく一匹オオカミを貫き、70歳で首相の座を獲得した」と指摘する。現在まで破られていない、初就任時における歴代英国首相の最高年齢だ。名門出身では無く「子爵家だが傍流のアイルランド中小貴族だった」と君塚氏。パーマストンは貴族院議員の資格を持たず庶民院から出馬。それも何度か落選し、選挙区を変更したりしてやっと議席を得た。苦労人でもある。
恩顧関係を持たないパーマストンの武器のひとつを、君塚氏は「徹底した仕事ぶりで英国の官僚たちを使い倒したこと」と指摘する。陸軍事務長官(陸軍予算の議会交渉、恩給、年金を担当する閣外大臣)、外相を歴任する中で、休日返上、ときには泊まり込みで行政の指揮にあたった。
英国の「ホワイトホール」は、日本の霞が関にあたる官庁街。当時は地主貴族層の次男・3男が縁故で中央官僚に就職するのが通例だったという。「優秀な若者は軍人、聖職、法曹界などに入る。最後の滑り止めといった位置づけの職業で、能力も士気も高くなかった」と君塚氏は分析する。そんな役人側の事情はお構いなしにパーマストンは陣頭指揮をとり仕事を増やし、外務省が作成する文書・データ資料は2倍以上に増えたという。
パーマストンの特徴は部下に任せっぱなしにせずに何度でもやり直しを要求する熱心さだ。外相退任時は役所から歓声が上がった。しかしその次の内閣ですぐ戻ってきたというエピソードも残っている。君塚氏は「パーマストンは英国の官僚文化や意識を変えたひとり」と評価する。19世紀後半に縁故採用が廃止され、高級官僚に対する採用試験の制度化につながっていった。日本の菅氏も霞が関にはこわもての官房長官で知られていた。官僚組織をハンドリングできることが、無派閥リーダーの第1条件かもしれない。
「世論」に着目、若手の世代交代論にも理解
君塚直隆氏 東大客員助教授、神奈川県立外語短期大教授などを経て現職。著書に「立憲君主制の現在」「悪党たちの大英帝国」(いずれも新潮選書)など
もうひとつの武器について「パーマストンは世論というものに力と意味を見いだした英国で最初の政治家だった。新聞界とのつながりを強固にし、中産階級と労働者階級を自身の政策に引きつけた」と君塚氏は分析する。首相に就任したのは1855年。当初短期で終わるとみられたクリミア戦争が泥沼化し、アバディーン首相が退陣した。後継候補は外相だったパーマストンのほかに何人もいたが、キングメーカーだったホイッグ党のランズダウン・貴族院院内総務の支持が決め手になったという。クリミア戦争はパーマストン内閣のときに講和が結ばれた。
無派閥リーダーの物語は、しかしここでは終わらない。59年の自由党結成で、初代党首に選ばれたのが、1年4カ月前に首相を辞任した74歳のパーマストンだった。ライバルは同世代のラッセル首相。さらに世代交代の声を受けて40代半ばのグランヴィル元外相も候補に挙がった。
パーマストンは、台頭してきた若手ホープに理解を示し、グランヴィル内閣が成立しても協力する姿勢を示した。ところがラッセルはかつての部下の軍門に下ることを拒否。「狭量ぶりがひんしゅくを買い、若手も取り込んだパーマストンが第2次政権を組閣し、亡くなったのは首相在任時の80歳だった」と君塚氏。
ロイド=ジョージは「派閥無し学歴無し七光り無し」
菅・次期首相を「派閥なし、学閥無し、親の七光り無し」の「3無い」首相候補だと、東アジアの有力紙は紹介したことがある。「学閥無し」については違和感があるが、文字通り「3無」だったのが第1次世界大戦の英国を指導したロイド=ジョージ首相(1863~1945)。父親はマンチェスターの学校教員で弁護士を経て政界入りした。当時の議員は地主貴族階級出身者が多くを占め、出身校もケンブリッジ大やオックスフォード大、パブリックスクールなどがほとんど。「中等教育までしか受けていないのはロイド=ジョージくらいだった」と君塚氏。長い政治人生を通して無派閥だった。
ロイド=ジョージの武器を「現場主義に徹底したことだ」と君塚氏は分析する。初入閣の商務院総裁時代には、役所にほとんどおらず、自ら業界の大物や実業家と会見し現場の生の声をもとに自国産業の育成に努めたという。台頭してきた労働組合界とも太いパイプを築いた。やがて大蔵大臣に転任。70歳以上の国民に一定の条件下で給付する「老人年金」を拠出する一方、富裕層への所得税増税や不動産への相続税などの「人民予算」も成立させた。一般国民の生活感覚を肌で知っていることがロイド=ジョージの強みで、地方法曹界出身にもかかわらず、政界有数の経済・財政通にのし上がった。
徹底した効率性追求、日本の若手にも影響
「徹底した効率性追求も、ロイド=ジョージの特徴だった」と君塚氏は指摘する。1916年、第1次世界大戦時で優柔不断が目立ったアスキス首相に代わり、ロイド=ジョージ内閣が発足した。まず最重要閣僚のみで構成する「閣内戦時内閣」を形成、「内閣府」を新設して部局を統括させ、官僚組織を首相直近の手足として使った。さらに信頼する新聞社社主、実業家、商業統計学者を首相官邸に集め「ブレーン政治」も始めた。君塚氏は「ヒト・モノ・カネを効率よく集め、集中的に投下していく政治手法だった」と統括する。
ロイド=ジョージ内閣は、日本の若きエリートにも影響を与えた。当時駐英大使館に赴任していた大蔵官僚(現財務省)の福田赳夫元首相(1905~95)だ。少数派のロイド=ジョージを、多数派の保守党、労働党が挙国一致で助け、非常時を乗り切っていく姿を目のあたりにした。これにヒントを得た福田氏は、1960年に安保騒動の混乱で退陣した岸内閣の後継として、民主社会党(当時)の西尾末広党首を首班として、自民党が支える構想を巡らせた。日の目は見なかったが、その後も福田氏には合従連衡の傾向が伺える。ライバルの田中角栄元首相が、自派の拡張に傾注するのとは対照的だ。
チャーチルが見せた抜群のコミュニケーション能力
そしてチャーチル(1874~1965)。第2次世界大戦で連合国側を勝利に導いた偉人も、実は一匹オオカミだった。後世に「20世紀で最も偉大な首相たち」というアンケートで1位を獲得したが、就任(40年5月)の1年前までは、トップに就くことなど誰も予想しなかったという。保守党と自由党を行き来したチャーチルには、ほら吹き、裏切り者、酔っ払いといった悪評がつきまとった。
チャーチルが持つ武器を「不動の信念と雄弁家だったパーマストン、ロイド=ジョージすら上回る国民とのコミュニケーション能力」とみる。ナチス・ドイツの台頭に最も早く警鐘を鳴らし始め、生涯変わることは無かった。多くの犠牲者を出すことを国民に覚悟させたコミュニケーション能力も例を見ない非凡さだ。「ナチスという巨悪に向かい人類全体に平和を取り戻すという歴史的で普遍的な意思も感じさせた」と君塚氏は話す。
共通する「孤立を恐れない信念」、生涯現役
この3人に共通するのは戦時中という非常事態の首相であったことだ。一匹オオカミの宰相は時代の転換期にしか現れない。さらに「孤立を恐れない自らの信念を持ち続けた点も共通する」と君塚氏。世論の動向にも、ひと一倍気を遣った。パーマストンとロイド=ジョージは最初から首相を目指していたわけではなかった。ただ手の届く位置に来たときは、獲得するのにためらいは無かった。
この2人には自分の路線を引き継ぐ後継者らしき人物も見当たらない。後継者とは育てるものではなく、自らなるものというのは、正しいのだろう。唯一、チャーチルにはイーデン外相(後に首相)という後継者がいたが、1930年代末に政界の孤児だったチャーチルを引っ張り出したのは、外相経験を持つ若手リーダーのイーデンだった。あえて言えば2012年の安倍晋三氏と再登板を促した菅氏の関係に近い。
この3人は世界史に名を刻む業績を上げた後も引退せず、事実上の生涯現役を続けた。パーマストンとチャーチルは第2次政権を組織し、ロイド=ジョージは77歳でチェンバレン内閣を糾弾する歴史的な名演説を行った。「自分が一番うまく世界をリードできるという自信が健康を維持させ、エネルギッシュな毎日を可能にさせたのだろう」と君塚氏。
トップの地位を狙わず覇権国をけん制
パーマストン、ロイド=ジョージ、チャーチルが目指した目標とは何だったか。君塚氏は「欧州に覇権大国が出現するのを防ぐことが第1の狙いだった。スペイン、フランス、ドイツ…勢力均衡策を繰り返すうちに英国自体が『太陽の没することの無い大帝国』に拡大した」と話す。
企業経営に例えれば、何が何でも業界トップに向け突き進んだのではなく、自社の経営方針を妨げるような大企業をけん制しているうちに業界首位に手が届いたというわけだ。君塚氏は「パーマストンは『英国人は遠大な計画を追求するのには慣れていない。目の前の課題をひとつひとつ解決するほかは無い』と自国民を戒めていた」と話す。経済活動に制限がかかっているウィズコロナ時代の現在、企業経営に何らかのヒントになるかもしれない。
(松本治人)
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請網友務必留下一致且可辨識的稱謂
顧及閱讀舒適性,段與段間請空一行