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2019-08-19

昭和天皇深深懊悔


Comment
The records of late Japanese Emperor Hirohito’s regret of the war was promulgate recently, nearly 75 years after the end of the Pacific War, might imply something big. 
New Japanese Emperor Naruhito will be a very different Emperor from the former two.

主權國家有必要再武裝,雖然沒有警察、醫生是理想,但生病需要醫生、守序需要警察,軍隊是不得已的存在


二戰筆記曝光…昭和天皇深深懊悔 反軍閥復闢、主修憲「曾想公開反省」    ETtoday 20190819
田島道治是根據日本憲法誕生的第一位宮內廳長官,1948年至1953年服侍昭和天皇。如今他的18本筆記曝光,其中記錄了與昭和天皇超過600次、約300小時的詳細對話,顯示昭和天皇對於發動第二次世界大戰十分後悔,一度想要向國民致詞表達反省,卻被當時的首相吉田茂駁回。

日媒NHK從田島遺族取得第一手紀錄「拜謁記」。紀錄中提到,昭和天皇回憶日本戰敗的過程,包括軍方多次「下剋上」擅自行動,「軍方的勢力誰都沒能阻止」、「現在想來,當時沒有盡早根絕軍方」,對此相當後悔。

深深懊悔讓昭和天皇強烈希望在195253日日本恢復獨立儀式上,向國民致詞時表達反省,不過當時昭和天皇面臨退位、日本復興問題,強調反省的言論就在田島詢問當時首相吉田茂後,被以「現在已經不希望談論戰爭及戰敗的事情」,直接刪除。

由於日本天皇根據憲法定義僅是「象徵性」,昭和天皇只能遵從吉田意見。不過這些刪除言論都留在了「拜謁記」裡面,內容提到,「增進國民康福、追求親善外交,是我攝政以來從未改變的國家方針,但日本受形勢所趨,兵敗、人亡、國縮,帶給人民不安與困苦,令人悔憾至極,每次回顧都悲痛的寢食難安」,顯示了昭和天皇想向人民傳達對戰爭的深刻悔恨。

另外對於東西冷戰、蘇聯入侵等危機,昭和天皇則堅持反對恢復戰前軍隊、軍閥,並修正憲法第九條,「主權國家有必要再武裝,雖然沒有警察、醫生是理想,但生病需要醫生、守序需要警察,軍隊是不得已的存在」,並要求田島將此想法告訴吉田。

不過當時吉田重經濟,主張輕軍備、不修憲,與昭和天皇看法大相逕庭。一橋大學特任教授吉田裕表示,昭和天皇不曾在公開場合談過對戰爭的悔恨或反省,竟如此深刻後悔令人驚訝,昭和天皇是活過戰前、戰中、戰後的人,也是最明白戰爭問題的人,「拜謁記」就是昭和天皇「不可忘記戰爭」的寫實紀錄。


昭和天皇 語れなかった戦争の悔恨    NHK 20190819
NHKは初代宮内庁長官が、5年近くにわたる昭和天皇との対話を詳細に書き残した「拝謁記」を入手しました。その記述から、昭和天皇が、戦争への後悔を繰り返し語り、終戦から7年後の日本の独立回復を祝う式典で、国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望したものの、当時の吉田茂総理大臣の反対でその一節が削られていたことがわかりました。分析にあたった専門家は「昭和天皇は生涯、公の場で戦争の悔恨や反省を明確に語ったことはなく、これほど深い後悔の思いを語ろうとしていたのは驚きだ」と話しています。

繰り返し語る後悔の言葉
「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治(たじま・みちじ)で、戦後つくられた日本国憲法のもとで昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。

田島長官は、このうち長官就任の翌年から5年近く、昭和天皇との具体的なやり取りやそのときの様子などを手帳やノート合わせて18冊に詳細に書き留めていて、NHKは遺族から提供を受けて近現代史の複数の専門家と分析しました。

その記述から昭和天皇が田島長官を相手に敗戦に至った道のりを何度も振り返り、軍が勝手に動いていた様を「下剋上」と表現して、「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」などと後悔の言葉を繰り返し語っていたことがわかりました。

強くこだわった「反省」
さらに、昭和天皇はサンフランシスコ平和条約発効後の昭和27年5月3日、日本の独立回復を祝う式典で、おことばを述べますが、この中で、戦争への深い悔恨と、二度と繰り返さないための反省の気持ちを国民の前で表明したいと、強く希望していたことがわかりました。

「拝謁記」には1年余りにおよぶ検討の過程が克明に記されていて、昭和天皇は、(昭和27年1月11日)「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と田島長官に語り、(昭和27年2月20日)「反省といふのは私ニも沢山あるといへばある」と認めて、「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内ニうまく書いて欲しい」などと述べ、反省の言葉に強くこだわり続けました。

削除された戦争への悔恨
当時の日本は、復興が進む中で、昭和天皇の退位問題もくすぶっていました

田島長官から意見を求められた吉田総理大臣が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」、「今日(こんにち)は最早(もはや)戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない気がする」などと反対し、昭和天皇が戦争への悔恨を込めた一節がすべて削除されたことがわかりました。

昭和天皇は田島長官に繰り返し不満を述べますが、最後は憲法で定められた「象徴」として総理大臣の意見に従いました。

吉田総理大臣が削除を求めた一節は、「国民の康福(こうふく)を増進し、国交の親善を図ることは、もと我が国の国是であり、又摂政以来終始変わらざる念願であったにも拘(かか)わらず、勢の赴くところ、兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡(せいせき)に顧みて、悔恨悲痛、寝食(しんしょく)為(ため)に、安からぬものがあります」という部分です。このうち、「勢の赴くところ」以下は、昭和天皇が国民に伝えたいと強く望んだ戦争への深い悔恨を表した部分でした。

専門家「戦後も戦前・戦中を生きていたのではないか」
「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「昭和天皇は生涯、公の場で戦争の悔恨や反省を明確に語ったことはなく、これほど深い後悔の思いを語ろうとしていたのは驚きだ」と指摘したうえで、「戦争への後悔や反省の記述が多く、昭和天皇は戦後も戦前・戦中を生きていたのではないか。戦争の問題にけりをつけたかったが、その後も苦渋の思いを引きずることになった。『拝謁記』は昭和の戦争を忘れてはいけないと語りかけている」と話しています。




2 則留言:

  1. 這種文章不看不生氣,脫罪之辭。
    昭和記取了大正的奪權失敗的屈辱,暗自培訓少壯軍人班底。
    五一五事件只要天皇一句下令破壞法制首謀者扛起責任自己切腹,就不會有人再用天皇的旗號招搖撞騙。
    後面就算還是不受控,我也可以相信與昭和無關。
    這個手法其實和毛澤東培養紅衛兵,縱容四處破壞的手段一樣。

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  2. 酈英傑南下高雄 造訪美售台軍艦拜會市政府(中央社
    嗯…

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