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2014-02-13

日本的權貴政治,台灣?

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此《日經》的文章為網友 Quantum 報知。
文章講的是日本權貴首相細川護熙(外祖父為近衛文麿)、安倍晉三(外祖父為岸信介,外叔公為佐藤榮作)、麻生太郎(祖父為吉田茂)。除此之外,還有鳩山一郎等等,很多。

封建傳統,是君主國家的文化與政治結構,假使難以打破(一如法國革命、辛亥革命或是俄國革命),一般國民就要強力要求權貴們應負起「貴族的責任」(Noblesse oblige),不能任憑少數人頤指氣使揮霍國家公器。
此次東京都選舉,勝利的雖然是自民黨與公民黨聯合推薦的「無黨籍」舛添要一(ますぞえ よういち),實際上,出來「攪局」的還有前首相「細川護熙」,其背後的支持者是前首相「小泉純一郎」。這兩位五府千歲算是慘敗。
文章提及權貴的變色龍現象,也如實反應日本戰後史。
細川護熙家世非常顯赫,印象中他好像說過自己10歲前從未自己穿衣(還是吃飯?)過。細川護熙的父系為熊本藩主。其母系屬近衛家,是華族之首。近衛家是從七世紀的平安時代起便長期擔任攝關(攝政與關白),並與天皇家族有姻親關係的藤原家族嫡系的「藤原北家」的「五攝(政)家」(近衛・九条・一条・二条・鷹司)之首。
近衛文麿(中文罕字應讀為ㄇㄛˇ,另讀為縻ㄇ一ˊ),戰前三度擔任首相。首度內閣開始中日戰爭,其後在內政提倡大政翼贊會,實施近衛體制(革新官僚)。外交則力推大東亞秩序,締結三國同盟,進入戰爭時代。
岸信介是近衛革新官僚之一,岸信介曾任滿洲國高官與商工省次長,後來改革失敗轉入政界。
開戰的是東條英機內閣,向天皇提出結束戰爭的奏文是近衛,而被視為英美派的吉田茂有參與。因為吉田茂的參與,而被日本憲兵抓起來。戰後,就因為這緣故,被GHQ視為資產。
GHQ將近衛視為發動戰爭的A級戰犯而下令逮捕。近衛不接受外國法院審判而自殺。岸信介則被捕,送進巢鴨監獄。吉田茂受到GHQ的支持而擔任首相,任期長達2616天,經歷對日和約、安保條約,等於與日本恢復主權連結在一起。岸信介獲不起訴處分後返回政界。岸信介與鳩山一郎等合作,對吉田發動倒閣。並合併自由黨與民主黨,成為自民黨並成立鳩山政權。同時,修改日美安保條約。
此次東京知事選舉細川護熙(與小泉純一郎)主張完全停止核電,被自民黨視為 passé。麻生太郎支持安倍,意在擴大自身的派閥並成為安倍的接棒。總之,權貴間的分合實在沒有貫穿的理念可言。
關心台灣政治的,在這文章中至少可以嗅到:
●在野政黨聯合提名「無黨籍」的現成例子。
●五府千歲,到哪裡都會踢到鐵板!
●權貴有可能繼續統治台灣(與台北),但權貴在勝選前曾為台灣做了些什麼?或者只是剪綵、現成的經營,然後靠媒體猛化妝?
●政治的分合,常常與理念無關,多的是政治利益。

vs近衛、安倍vs細川祖父「因縁政局」日經(2014.02.12http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0702I_X00C14A2000000/
 かつて首相経験者といえば、政争の最前線から退き「重鎮」「ご意見番」に徹するのが常だった。今は違う。東京都知事選に立候補し、惨敗した細川護熙。現首相の安倍晋三、安倍のもとで副総理・財務相をつとめる麻生太郎。いずれも、いちど首相を経ての再登場だ。安倍は細川が政権の座についた選挙で国政に出て、野党の自民党から政治生活をスタートさせた因縁もある。細川、安倍、麻生の3人は、母方の祖父が元首相という点でも共通する。平成の時代にあいまみえる3人の祖父たちも、昭和の政治史で浅からぬ縁を結んできた。
近衛・岸・吉田、連携と反目と

(上段左から)近衛、岸、吉田の3元首相と、(下段左から)孫の細川、安倍、麻生の3氏=近衛は共同
 首相経験者として史上初めて首長選に出馬し、しかも敗れた細川。立候補表明の際には「殿、ご乱心」(経済財政・再生相の甘利明)との声があがった。かつての熊本藩主・細川家の系譜に連なることから皮肉ったものだが、細川の母方の祖父は近衛文麿近衛家は華族のトップ藤原北家の嫡流である五摂家(近衛・九条・一条・二条・鷹司の5家)筆頭の家柄だ
 その当主である近衛文麿は戦前、3度にわたり首相をつとめた。第1次内閣では盧溝橋事件に端を発した日中戦争を拡大させ、第2次・第3次内閣の治世下では近衛新体制を唱え、大政翼賛会を設立した。外交面では東亜新秩序、大東亜共栄圏の建設を声高に訴え、日独伊三国軍事同盟を結ぶ。日本が戦争の泥沼へと突き進む道を、実質的に切りひらいた。
 近衛新体制を官界からサポートした「革新官僚」の代表格が、安倍の祖父で、のちに首相となる岸信介だ。満州国高官や商工省次官をつとめていた岸は、近衛が唱える計画経済・統制経済を大胆にとらえた政策を次々と発表。第2次近衛内閣では商工相への就任要請まで受けたが、蜜月は長くは続かなかった。岸が主導する統制経済政策に一部閣僚や財界が猛反発。岸は、近衛とたもとを分かつ形で次官を辞任、政界に転じる
 一方の近衛は、日米開戦の最終決断を東条英機内閣に丸投げし、軽井沢の地でじっと戦況を見据えていた。日本の敗色が決定的となった1945年(昭和20年)2月、近衛は米国などとの和平交渉を促す「近衛上奏文」を昭和天皇に提出する
 「敗戦は遺憾ながらもはや必至なりと存候」と始まる上奏文は、敗戦に伴って起こる共産革命の恐怖を説き、革命の首謀者は軍部や官界の一部勢力であると断じた。名指しこそは避けたが、岸ら革新官僚を指すことは明らかだった。
 この上奏文作成に深くかかわったのが、麻生の祖父、吉田茂だ
 親英米派の外交官として鳴らした吉田は、かねて英米との戦争に批判的で、早期和平の糸口をさぐっていた。そこで白羽の矢を立てたのが近衛だった。華族最高の家柄を誇り、皇室とも血縁関係にある……。天皇への影響力を見越してのことだった。上奏文そのものは日の目を見ることはなく、吉田自身も上奏文に関与した容疑で憲兵隊に拘束されるが、この経歴が終戦後の米国統治下でプラスに働くことになる
戦後、明暗を分けた3人 
 近衛、岸、吉田3人の境遇は、終戦で大きく明暗を分ける。
 戦後統治を担ったGHQ(連合国軍総司令部)は、近衛と岸にA級戦犯容疑での逮捕指令を下す。近衛はこれを潔しとせず「米国の法廷において裁判を受ける事は堪え難い」との遺書を残し、青酸カリをあおぐ。死因が自殺の、ただ一人の元首相となった。
 岸は巣鴨プリズンに投獄の身となる。
 吉田はGHQの後ろ盾を得る形46年(昭和21年)に首相就任。第5次内閣まで率い、在任期間は2616日に及んだ。この間、サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約を結び、日本は独立国として国際社会に復帰する。吉田の名は、戦後復興とともに歴史に刻まれることになる。
 絶頂を極めた吉田の追い落としに動いたのが岸だった。戦犯不起訴となり、戦後政界に返り咲いた岸は、吉田のライバルだった鳩山一郎(元首相・鳩山由紀夫の祖父)とタッグを組み、吉田内閣の倒閣運動を主導自由党と民主党の「保守合同」を果たし、鳩山政権誕生の立役者ともなった。その後、第3代自民党総裁として首相に就き、60年(昭和35年)の日米安保条約改定を成しとげる。
 時は移り、3人の孫たちも、それぞれの思惑を秘め相対する。
 細川は敗北宣言で「脱原発の運動をこれからも信念としてつなげていく」と、反原発を旗印とした政治活動の続行を表明した。自民党では「もはや過去の人」と突き放す声が強いが、選挙戦で連携した元首相、小泉純一郎の動向とあわせ、今後の不透明要因になり得る。
 安倍は高い内閣支持率を背景に、集団的自衛権容認や憲法改正など、長期政権をにらんだ布石を次々と打つ。麻生は表向き安倍を支える姿勢を保っているが、自身の派閥拡大に余念がなく、ポスト安倍の有力候補に名を連ねる。麻生側近の1人は「準備は怠りない。安倍同様に再チャレンジへの意欲は満々だ」と語る。
 敵と味方が局面ごとに入れ替わるのが政治の世界の習いだ。昭和の3首相も、戦前・戦後の混乱期に有為転変を重ねてきた。孫たちに、どんな因果がめぐるのか――。=敬称略
(吉田修)


2 則留言:

  1. 雲大錯愛了,不敢掠美。

    此文來自:匿名網友

    朴槿惠的世界觀:統一,大撈一把

    匿名 2014年2月12日 上午10:26:00

    岸vs近衛、安倍vs細川… 祖父と孫の「因縁政局」 。
    http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0702I_X00C14A2000000/

    另關於 麿(中文無此字,勉強讀為麻呂),

    左岸的考證:
    http://www.zdic.net/z/29/js/9EBF.htm

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    1. 多謝分享
      在 Window 輸入法,可以手寫輸入,但無讀音。
      在 Yahoo 輸入法,無此字。

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請網友務必留下一致且可辨識的稱謂
顧及閱讀舒適性,段與段間請空一行